« 保津川下り | トップページ | 2015年8月サギたちの昼食会 »

2015年9月 4日 (金)

方広寺鐘銘事件〜豊臣家の滅亡

20150627_102945
「国家安康」
「君臣豊楽」

かつて京都には奈良東大寺の大仏(14.7m)を凌ぐ、高さ19mの大仏がありました。

豊臣秀吉が奈良の東大寺にならって大仏建立をこころざし、天正14年(1586)造営を開始したのが方広寺です。文禄4年(1595)、ほぼ大仏殿が完成し高さ6丈3尺(約19メートル)の木製金漆塗座像が安置されますが、翌慶長元年(1596)、畿内を襲った慶長伏見地震のため大仏は大破してしまいました。秀吉は激しく怒り、「己の身も守れぬのか」と倒壊した大仏の額に矢を放ちました。

慶長3年(1598)、秀吉は大仏開眼供養を待たずに死去し、慶長5年(1600年)には関ヶ原の戦いが起こります。豊臣側は敗れましたが、なお65万石の地方大名として生き残ります。豊臣秀頼は秀吉の遺志を継いで大仏復興を命じ、再建が開始されました。家康は大仏再建に協力の意を表しますが、これは豊臣家の財力を奪う策略でした。
当初、秀頼が目指した金銅仏は建造半ば、慶長7年(1602年)失火により焼失しましたが、慶長17年(1612)、秀吉から数えて3体目となる高さ19mの銅造大仏がついに完成しました。しかしここで大坂の陣の直接の原因となった「方広寺鐘銘事件」が起こります。関ヶ原の戦いから12年、満を持した家康の謀略です。鐘に書かれている鐘銘文中に「国家安康」「君臣豊楽」とあったものを、「国家安康(こっかあんこう)」は家康の名を分断し、「君臣豊楽(くんしんほうらく)」は豊臣家の繁栄を願い、徳川家が没落するように呪いが込められていると家康側がいいがかりをつけたのです。
家康は豊臣家からのいっさいの弁明を受け付けず、これを戦の口実とし、豊臣家を滅ぼすべく大阪冬の陣、夏の陣と呼ばれる戦をしかけていきました。。

大仏殿と大仏は、豊臣家滅亡後も破却されずに残りましたが、寛政10年(1798)、落雷によって焼失してしまいます。天保年間に旧大仏の10分の1の木造半身像(首だけの大仏)が寄進されましたが、それも昭和48年に再び火災に遭って焼失してしまいました。現在残っているのは「方広寺鐘銘事件」の梵鐘のみです。しかし「大仏前交番」や「大仏前郵便局」という名称や、大仏殿の正面にあったところから「正面町」という町名や、大仏殿に向かう道を「正面通」と呼ぶなど、大仏殿があった名残りを今に伝えています。

20150627_102947

20131116_100750_4

20150627_102714

20150627_102834

20150829_081258

20150829_081334

20150829_081739
方広寺本殿

20150829_081949
豊国神社
大仏殿があった場所には、現在豊国神社があります。何気なく立っていますが、この唐門(からもん)は国宝で、伏見城からの移築と考えられています。

20150829_082032

20150829_082035

20150627_102354

20150627_102351

20150829_082326

20150829_080248
大仏前交番

20150829_082718
大仏前郵便局

20150627_101605
正面通にかかる正面橋

« 保津川下り | トップページ | 2015年8月サギたちの昼食会 »

」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/599019/62218514

この記事へのトラックバック一覧です: 方広寺鐘銘事件〜豊臣家の滅亡:

« 保津川下り | トップページ | 2015年8月サギたちの昼食会 »