« 鴨川と高野川の六つの飛び石 | トップページ | べた踏み坂 »

2017年11月 5日 (日)

瓦土塀(かわらどべい)

Kawaradobei_001
土塀(どべい)は、粘土質の土や泥に、石灰とフノリに加え、菜種油、水、藁などの天然素材で作られた伝統的な塀ですが、ここ大徳寺を始め、いくつかの寺に「瓦土塀」と呼ばれる、廃材を利用し、瓦を何層にも積み重ねた土塀があります。
瓦土塀は「瓦積み式土塀 」 の略で、文字通り、瓦が何層にも積み重なっている土塀で、瓦を挟み込む理由は耐久性もさることながら、意匠性(デザイン性)を得る為と思われます。
この塀たちはアートですね。

Kawaradobei_002

Kawaradobei_004

Kawaradobei_005

Kawaradobei_006

Kawaradobei_007

Kawaradobei_008

Kawaradobei_009

Kawaradobei_010

Kawaradobei_011

Kawaradobei_012

Kawaradobei_013

Kawaradobei_014

Kawaradobei_015

Kawaradobei_064

Kawaradobei_016

Kawaradobei_017

Kawaradobei_018

Kawaradobei_019

Kawaradobei_020

Kawaradobei_021

Kawaradobei_022

Kawaradobei_023

Kawaradobei_024

Kawaradobei_025

Kawaradobei_026

Kawaradobei_027

Kawaradobei_028

Kawaradobei_029

Kawaradobei_030

Kawaradobei_031
大徳寺のほど近く、紫式部の墓所があります。
この「紫式部墓所」には小野篁(おののたかむら)という方のお墓が並んで建っています。小野篁は平安時代の貴族で、紫式部と同じく、歌人としても活躍していました。
お墓が隣接しているというと、夫婦や恋人のように思えますが、紫式部が生まれたのは篁が没してから120年前後が経ってからですので、ふたりに接点や面識はありません。にもかかわらず、紫式部と篁は同じ場所に埋葬されているのです。
これには紫式部の執筆した源氏物語と、篁にまつわる伝説が深く関わっています。
源氏物語は、貴族社会の恋愛を中心とした物語です。
当時、人々の愛欲を書いた紫式部は、ふしだらな絵空事で多くの人々を惑わせたとして、死後は地獄行きになったと信じられていたそうです。
源氏物語を愛読していた人(ファン)たちは。彼女の地獄行きを心苦しく思ったのでしょう。
ファンたちは小野篁のお墓を紫式部の墓のとなりに移動させ、彼女を救って欲しいと祈りを捧げました。
なぜ篁なのかといえば、彼には生前から「あの世とこの世を行き来していた」という伝説があったからで、篁は夜になると冥界に出向き、閻魔大王が行う裁判の補佐をしていた(夜間のアルバイト?)といいます。ファンたちの祈りが通じたことで、篁は閻魔大王と紫式部の間に立ち大王を説得してくれたそうです。その結果、紫式部は地獄から解放されたと信じられています。そんな訳でここに紫式部と小野篁の墓が並んでいるのだそうです。

Kawaradobei_032

Kawaradobei_033

Kawaradobei_034
「ムラサキシキブ」

Kawaradobei_035

Kawaradobei_036

Kawaradobei_037

Kawaradobei_038
紫式部顕彰碑
紫式部は、藤原為時(ふじわらのためとき)を父として天延(てんえん)元年(973年)頃に生まれた。名は未詳であるが、香子(たかこ)と言った可能性が多い。
祖父も父も歌人、詩人であった関係から彼女も幼時より学芸に親しみ、穎脱<えいだつ=才能がとびぬけてすぐれていること>したその才能は夙(つと)に<=早くから>認められていた。
長保(ちょうほう)元年(999年)藤原宣孝(のぶたか)の妻となり、翌年娘の賢子(かたこ)を産んだが、同三年、不幸にも夫を喪った。
寛弘(かんこう)三年(1006年)頃、内覧(ないらん)左大臣・藤原道長(みちなが)の長女で一條天皇の中宮<ちゅうぐう=皇后に同じ>として時めいていた<=栄える>彰子(あきらこ)に仕え、候名<=中宮にお仕えしたときの呼び名>を父の官名に因(ちな)んで式部と称した。
式部は侍講(じこう)として中宮に漢文学を教授する傍(かたわら)、『源氏物語』の執筆に励み、寛弘(かんこう)六年頃、この浩翰<こうかん=広大>な物語を完成し、世界文学史上に耀かしい紀念塔を建てた。
寛弘七年頃には、日本思想史の上で稀有な虚無的人生観をこめた『紫式部日記』を纏め上げた。晩年には引き続いて中宮(後に上東門院(しょうとうもんいん))の側近に仕え、また『紫式部集』を自撰した。
『源氏物語』は、執筆当時から宮廷社会においてもてはやされ、その女主人公・紫の上に因んで、彼女は紫式部と呼ばれた。
歿年(ぼつねん)については、長元四年(1031年)とみなす説が有力である。『河海抄』その他の古記録は、「式部の墓は、雲林院(うりんいん)の塔頭<たっちゅう=大寺院の別坊>の白豪院(びゃくごういん)の南、すなわち北区紫野西御所田町に存した」と伝えているが、この所伝<=言い伝え>には信憑性が多い。
『源氏物語』は、完成後、九世紀に亘(わた)って国民に親しまれ、また研究された。今世紀に入ってからは、式部の文名は広く海外でも知られ、『源氏物語』は、続々と各国語に翻訳された。
1964年、ユネスコは彼女を「世界の偉人」の一人に選んだ。
なお、紫式部の居宅は堤第(つつみてい)と言い、平安京東郊の中河(なかがわ)に所在した。すなわち廬山寺(ろざんじ)のある上京区北之辺町のあたりである。
また一人娘の賢子(かたこ)は、後冷泉(ごれいぜい)天皇の乳母(めのと)となり、従三位(じゅさんみ)に叙された。十一世紀の勝れた閨秀<けいしゅう=学業にすぐれた女性>歌人の大弐三位(だいにのさんみ)とは、賢子のことである。
平成元年(西紀一九八九年)春
文学博士  角 田 文 衞

Kawaradobei_039

Kawaradobei_040

Kawaradobei_042
「紫式部墓所」を後にして、少し歩いて西陣に移動しました。

Kawaradobei_043

Kawaradobei_044

Kawaradobei_045
法華宗真門流総本山「本隆寺」の瓦土塀

Kawaradobei_046

Kawaradobei_047

Kawaradobei_048

Kawaradobei_049

Kawaradobei_050

Kawaradobei_051

Kawaradobei_052

Kawaradobei_053
「本隆寺」に隣接する通称「西陣聖天」こと、「雨宝院」。

Kawaradobei_054
「雨宝院」からの「本隆寺」瓦土塀

Kawaradobei_102
この場所で、NHK BSプレミアム「京都人の密かな愉しみ」第一作(2015年1月放映)が撮影されました。ヒロインの常盤貴子さんです。(BS放映映像から)

Kawaradobei_101
(BS放映映像から)

Kawaradobei_055

Kawaradobei_056
「岩上神社」

Kawaradobei_057
岩上神社(駒札)
伝えによれば,二条堀川付近にあった霊石が六角通(岩上通六角辺り)に遷(うつ)され、更に中和門院(ちゅうわもんいん)(後陽成(ごようぜい)天皇の女御の一人で後水尾(ごみずのお)天皇の母)の屋敷の池の畔に遷されると怪異な現象が起きたという。吼え出したり、すすり泣いたり、子供に化けたり、の類である。子供に化けたという伝説に因んで「禿童(かむろ)石(いし)」と呼ばれたこともあったという。 持て余した女官たちが遂にたまりかねて蓮乗院(れんじょういん)という真言宗の僧を召したところ、彼はその石を貰い受け、現在地に遷して祀ったと いう。その際に「有乳(うにゅう)山 岩上寺」と称した。以降、授乳、子育て の信仰を集め、地元では「岩上さん」と親しみを込めて呼ばれて いる。 寺は享保(きょうほう)十五年(1730)の大火事「西陣焼け」で堂舎が焼かれ、天明八年(1788)の「天明の大火」では荒廃の極みに達した。
明治維新の際には廃寺となったが、大正年間に織物業の千切屋(ちきりや)が敷地内に祠(ほこら)を構え、以降「岩上神社(岩上(いわがみ)祠(し))」となって今に至る。数奇な運命を経た霊石だけは昔の姿そのままで現在に伝わる。                                                           京都市

Kawaradobei_058

Kawaradobei_059
京都駅近くの「東本願寺」飛び地「渉成園」にも瓦土塀があります。

Kawaradobei_060

Kawaradobei_061

Kawaradobei_062

Kawaradobei_063

« 鴨川と高野川の六つの飛び石 | トップページ | べた踏み坂 »

神社・寺」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/599019/66007697

この記事へのトラックバック一覧です: 瓦土塀(かわらどべい):

« 鴨川と高野川の六つの飛び石 | トップページ | べた踏み坂 »