神社・寺

2017年11月 5日 (日)

瓦土塀(かわらどべい)

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土塀(どべい)は、粘土質の土や泥に、石灰とフノリに加え、菜種油、水、藁などの天然素材で作られた伝統的な塀ですが、ここ大徳寺を始め、いくつかの寺に「瓦土塀」と呼ばれる、廃材を利用し、瓦を何層にも積み重ねた土塀があります。
瓦土塀は「瓦積み式土塀 」 の略で、文字通り、瓦が何層にも積み重なっている土塀で、瓦を挟み込む理由は耐久性もさることながら、意匠性(デザイン性)を得る為と思われます。
この塀たちはアートですね。

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大徳寺のほど近く、紫式部の墓所があります。
この「紫式部墓所」には小野篁(おののたかむら)という方のお墓が並んで建っています。小野篁は平安時代の貴族で、紫式部と同じく、歌人としても活躍していました。
お墓が隣接しているというと、夫婦や恋人のように思えますが、紫式部が生まれたのは篁が没してから120年前後が経ってからですので、ふたりに接点や面識はありません。にもかかわらず、紫式部と篁は同じ場所に埋葬されているのです。
これには紫式部の執筆した源氏物語と、篁にまつわる伝説が深く関わっています。
源氏物語は、貴族社会の恋愛を中心とした物語です。
当時、人々の愛欲を書いた紫式部は、ふしだらな絵空事で多くの人々を惑わせたとして、死後は地獄行きになったと信じられていたそうです。
源氏物語を愛読していた人(ファン)たちは。彼女の地獄行きを心苦しく思ったのでしょう。
ファンたちは小野篁のお墓を紫式部の墓のとなりに移動させ、彼女を救って欲しいと祈りを捧げました。
なぜ篁なのかといえば、彼には生前から「あの世とこの世を行き来していた」という伝説があったからで、篁は夜になると冥界に出向き、閻魔大王が行う裁判の補佐をしていた(夜間のアルバイト?)といいます。ファンたちの祈りが通じたことで、篁は閻魔大王と紫式部の間に立ち大王を説得してくれたそうです。その結果、紫式部は地獄から解放されたと信じられています。そんな訳でここに紫式部と小野篁の墓が並んでいるのだそうです。

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「ムラサキシキブ」

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紫式部顕彰碑
紫式部は、藤原為時(ふじわらのためとき)を父として天延(てんえん)元年(973年)頃に生まれた。名は未詳であるが、香子(たかこ)と言った可能性が多い。
祖父も父も歌人、詩人であった関係から彼女も幼時より学芸に親しみ、穎脱<えいだつ=才能がとびぬけてすぐれていること>したその才能は夙(つと)に<=早くから>認められていた。
長保(ちょうほう)元年(999年)藤原宣孝(のぶたか)の妻となり、翌年娘の賢子(かたこ)を産んだが、同三年、不幸にも夫を喪った。
寛弘(かんこう)三年(1006年)頃、内覧(ないらん)左大臣・藤原道長(みちなが)の長女で一條天皇の中宮<ちゅうぐう=皇后に同じ>として時めいていた<=栄える>彰子(あきらこ)に仕え、候名<=中宮にお仕えしたときの呼び名>を父の官名に因(ちな)んで式部と称した。
式部は侍講(じこう)として中宮に漢文学を教授する傍(かたわら)、『源氏物語』の執筆に励み、寛弘(かんこう)六年頃、この浩翰<こうかん=広大>な物語を完成し、世界文学史上に耀かしい紀念塔を建てた。
寛弘七年頃には、日本思想史の上で稀有な虚無的人生観をこめた『紫式部日記』を纏め上げた。晩年には引き続いて中宮(後に上東門院(しょうとうもんいん))の側近に仕え、また『紫式部集』を自撰した。
『源氏物語』は、執筆当時から宮廷社会においてもてはやされ、その女主人公・紫の上に因んで、彼女は紫式部と呼ばれた。
歿年(ぼつねん)については、長元四年(1031年)とみなす説が有力である。『河海抄』その他の古記録は、「式部の墓は、雲林院(うりんいん)の塔頭<たっちゅう=大寺院の別坊>の白豪院(びゃくごういん)の南、すなわち北区紫野西御所田町に存した」と伝えているが、この所伝<=言い伝え>には信憑性が多い。
『源氏物語』は、完成後、九世紀に亘(わた)って国民に親しまれ、また研究された。今世紀に入ってからは、式部の文名は広く海外でも知られ、『源氏物語』は、続々と各国語に翻訳された。
1964年、ユネスコは彼女を「世界の偉人」の一人に選んだ。
なお、紫式部の居宅は堤第(つつみてい)と言い、平安京東郊の中河(なかがわ)に所在した。すなわち廬山寺(ろざんじ)のある上京区北之辺町のあたりである。
また一人娘の賢子(かたこ)は、後冷泉(ごれいぜい)天皇の乳母(めのと)となり、従三位(じゅさんみ)に叙された。十一世紀の勝れた閨秀<けいしゅう=学業にすぐれた女性>歌人の大弐三位(だいにのさんみ)とは、賢子のことである。
平成元年(西紀一九八九年)春
文学博士  角 田 文 衞

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「紫式部墓所」を後にして、少し歩いて西陣に移動しました。

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法華宗真門流総本山「本隆寺」の瓦土塀

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「本隆寺」に隣接する通称「西陣聖天」こと、「雨宝院」。

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「雨宝院」からの「本隆寺」瓦土塀

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この場所で、NHK BSプレミアム「京都人の密かな愉しみ」第一作(2015年1月放映)が撮影されました。ヒロインの常盤貴子さんです。(BS放映映像から)

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(BS放映映像から)

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「岩上神社」

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岩上神社(駒札)
伝えによれば,二条堀川付近にあった霊石が六角通(岩上通六角辺り)に遷(うつ)され、更に中和門院(ちゅうわもんいん)(後陽成(ごようぜい)天皇の女御の一人で後水尾(ごみずのお)天皇の母)の屋敷の池の畔に遷されると怪異な現象が起きたという。吼え出したり、すすり泣いたり、子供に化けたり、の類である。子供に化けたという伝説に因んで「禿童(かむろ)石(いし)」と呼ばれたこともあったという。 持て余した女官たちが遂にたまりかねて蓮乗院(れんじょういん)という真言宗の僧を召したところ、彼はその石を貰い受け、現在地に遷して祀ったと いう。その際に「有乳(うにゅう)山 岩上寺」と称した。以降、授乳、子育て の信仰を集め、地元では「岩上さん」と親しみを込めて呼ばれて いる。 寺は享保(きょうほう)十五年(1730)の大火事「西陣焼け」で堂舎が焼かれ、天明八年(1788)の「天明の大火」では荒廃の極みに達した。
明治維新の際には廃寺となったが、大正年間に織物業の千切屋(ちきりや)が敷地内に祠(ほこら)を構え、以降「岩上神社(岩上(いわがみ)祠(し))」となって今に至る。数奇な運命を経た霊石だけは昔の姿そのままで現在に伝わる。                                                           京都市

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京都駅近くの「東本願寺」飛び地「渉成園」にも瓦土塀があります。

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2017年3月11日 (土)

下鴨神社の「流し雛」と三十三間堂の「春桃会(もものほうえ)」

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流し雛とは毎年3月3日に下鴨神社で行われる古式ゆかしい行事で、一般公募で選ばれた男女らが、桟俵に乗せた紙雛を境内の御手洗川にそっと流し、厄災を祓います。
当日、参拝者には雛あられ付きの流し雛が授与(有料)されます。

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糺の森

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ここで流し雛を買い求めます。(小)が500円、(大)が1000円です。こんな価格でいいのだろうかと、申し訳なく思ってしまうほど見事な造りです。しかも雛あられまでついてます。

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流し雛は夏の「御手洗まつり」開催の場所でもある、御手洗川で行われます。

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午前11時に始まると聞いていたので、10時前には到着したのですが・・・・この人出です。

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Kyoto_designこのように大小の流し雛が御手洗川に優雅に浮かぶはずなのですが、人が多すぎて撮影ポジションが確保できないと判断し、無念の撤収です。(画像はYouTubeから)

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下鴨神社に向かう前、三十三間堂の春桃会(もものほうえ)を参拝させていただきました。
「三十三間堂」の名前にちなんで「三」の重なる3月3日桃の節句に行われる法会で、華道池坊の献花式と華展、千体観音像を特設の高壇から遥拝するなど、縁日(無料公開)の慶祝行事が催されます。

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午前9時の開堂を待つ人々。

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堂内は撮影禁止でしたが、1000体を越える仏像群は圧巻でした。

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このマスコットさんは比叡山延暦寺の「一隅を照らす(いちぐうをてらす)運動」キャラクター「しょうぐうさん(照隅さん)」です。一隅を照らすとは天台宗の開祖である最澄の言葉であり、「一隅(いちぐう)を照らす、 これ則(すなわ)ち国宝なり」 という教えがあり、 「それぞれの立場で精一杯努力する人はみんな、 何者にも代えがたい大事な国の宝だ」 という意味だそうです。

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2015年7月 4日 (土)

善峯寺(よしみねでら)と大原野神社(おおはらのじんじゃ)

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善峯寺(よしみねでら)
1029年(長元2)源算上人が創建した天台宗寺院。西国三十三ヵ所第20番札所で、山号は西山(にしやま)、寺号は善峯寺(よしみねでら)。長元7年(1034)後一条天皇より鎮護国家の勅願所と定められ、「良峯寺」の寺号が下賜され、建久3年(1192)後鳥羽天皇より現在の「善峯寺」の宸額が下賜されました。応仁の乱により大半の坊が焼失しましたが、江戸時代には徳川5代将軍綱吉公の生母である桂昌院を大檀那として、現存の鐘楼・観音堂・護摩堂・鎮守社・薬師堂・経堂が復興されて、幾多の貴重な什物が寄進されました。境内にある遊龍の松(天然記念物)は、高さ2メートル余だが、横へ37メートル以上も幹を伸ばし、龍の姿に似ている。また、境内は3万坪で四季折々の花にめぐまれ幽玄の観音浄土である。

桂昌院について

NHK 歴史秘話ヒストリアより
大奥シンデレラ・ストーリー~将軍の母・桂昌院 玉の輿物語

京都市北区にいま、女性たちが熱い視線を注ぐスポットがあります…今宮神社です。…お目当ては、”玉の輿お守り”…玉の輿に乗ってセレブで幸せな結婚が出来ると人気のお守りです。

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玉の輿の言葉の由来は、桂昌院の事だと言われています…桂昌院(お玉)、江戸時代、この神社の近くで八百屋の娘として生まれ、なんと天下の将軍と結ばれた日本のシンデレラです。
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八百屋の娘から徳川5代将軍・徳川綱吉の母へ…究極の出世を遂げたシンデレラ、お玉こと桂昌院、町娘がシンデレラの階段を上るキッカケはちょっとした運命のいたずらから。

次から次へと幸運を射止める桂昌院の元祖「玉の輿」物語です。

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江戸時代のシンデレラ 元祖「玉の輿」物語
今から400年前、江戸に幕府を開いた徳川家康から三代目、3代将軍家光の時代…京都で一人の女の子が誕生します。

名前は、お玉…後に5代将軍、徳川綱吉の生母となる桂昌院です。…父は手広く野菜を商う八百屋、お玉は商人の子として活発に育ちました。

しかし、そんなお玉に突然の不幸が…頼りの父が亡くなったのです。…支えを失ったお玉と母、寄る辺を求め京都西山の善峯寺に奉公に出ます。

そんなお玉に最初の転機が訪れます…下級武士、本庄家の養女になったのです…亡くなった父が本庄家に野菜を納めていた縁からです。

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その本庄家の家紋が「九目結紋」(ここのつめゆいもん)…当時家紋は武士など身分のある家だけが付ける事ができました。…運に恵まれ初めて家紋を持つ身分になったお玉、シンデレラストーリーの幕開けです。

するとお玉は、勤め口にも恵まれます…本庄家の紹介で公家出身の尼僧の待女となります…町人⇒下級武士⇒公家へとお玉はステップアップして行きます。

寛永16(1639)年 13歳のときお玉は最大の転機を迎えます…尼僧のお供で江戸城に登ります。…尼僧が高貴な寺院の責任者になった挨拶を将軍・家光にする為でした。

お供のお玉には、将軍は雲の上の存在、当然、お目見えは許されず別室で待たされます…その頃、尼僧は家光に謁見、型通りの挨拶を済ませて早々に帰る予定でした…しかし事態は思わぬ方向へ。

なんと家光は、尼僧に一目ぼれ、尼僧は、お万の方と名を改め家光の側室になります…そしてお玉も京都に一度も帰ることなく、お万の方の侍女として江戸城で暮らすことになったのです。

お玉の入ったのは大奥、それは江戸城の一番奥にある将軍のプライベートルームです…将軍以外、男子禁制、生母を始め、正室、側室、そしてそれぞれに仕える女中など数百人が働く、女の園、…役割は、ただひとつ、徳川政権を盤石にするため将軍の世継ぎを生み育てること。

この大奥で働く女中でも将軍のお眼鏡にかなえば、将軍の側室になる大出世も可能でした…多くは、女性たちにとってシンデレラになるチャンスのある憧れの場所だったのです。

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我が子を将軍に! シンデレラの祈り
そしてお玉も成人して19歳の時、家光に見初められ側室となり、やがて家光の子を懐妊します。…信心深かったお玉は、御仏に「どうか男子が授かりますように」と祈ります。

正保3(1646)年 お玉20歳、後に将軍となる男子を出産したのです…5代将軍、徳川綱吉です。…そしてお玉は、更に仏教に帰依するようになったのです。

お玉は、見事、男子を出産したのですが当時、すでに家光には2人の男子がいました…将軍の跡目順位は、1番が摘男・家綱、次に二男・綱重となり、お玉の子・綱吉は三番目と将軍になる望みは薄かったのです。

お玉は、将来、息子が将軍になった時の事を考え、儒学などを熱心に学ばせます…しかし、将軍になる機会は訪れませんでした…慶安4(1651)年、家光が死去、4代将軍には予定通り、11歳の嫡男・家綱が就任します。

お玉は、当時の習慣に習い、出家して桂昌院と名乗りました…しかし桂昌院は諦めません、綱吉の教育にも更に力を入れます。

延宝8(1680)年 桂昌院54歳…息子を導くこと30年余り、事態は大きく動きます…4代将軍・家綱が突然病死、家綱には子がありません…更に世継ぎ候補の二男・綱重はすでに死去、…見渡せば将軍候補は、桂昌院の子、綱吉だけだったのです。

ここに5代将軍・徳川綱吉が誕生します。…御仏の心を信じ、綱吉を養育してきた桂昌院は、努力が報われ54歳でついに将軍の生母へと上り詰めたのです。

そして桂昌院の実家、本庄家も大出世を遂げます…下級武士から美濃因幡の大名に取り立てられ、徳川家ゆかりの「松平」の姓まで与えられた者もいたのです。

東京文京区にある護国寺、桂昌院は綱吉の将軍就任後、この壮麗な寺院を建てます…更に仏への思いを形にするため東大寺大仏殿、法隆寺、唐招提寺、新薬師寺、日本各地の神社、仏閣の修復、復興に力を尽くします。

桂昌院の願いの歌です。「もろともに 光をてらせ五地の寺 君があゆみを よろづ世までと」…全ての寺院よ、あまねく光を照らしてください。我が子綱吉の世がいつまでも続くように。

桂昌院は、どんなに難しい状況になろうとも息子の幸せを願い祈り続けたのです。

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我が子に世継ぎを!
綱吉が将軍となり、世継ぎも得た桂昌院、順風満帆に思われました…ところが天和3(1683)年 桂昌院57歳、世継ぎの徳松が5歳で病死、桂昌院と綱吉は深い悲しみに沈みます。

その後、綱吉は子を授かりません…世継ぎを授かるために仏に祈る、桂昌院と綱吉、やがて子が授からないのは世を収めるための功徳、つまりよい行いが足りないからだという思いに至ります。

桂昌院と綱吉は、更に功徳をつもうと行動、生活に困っている人たちに米を支給、病気の旅人が無料で治療を受けられるようにし、更に全国の没落した小さな寺の復興にも尽力しました…その数100余り。

要した費用は、70万両(現在の価値で1400億円)これまで蓄えてきた幕府の資産の3分の1をつぎ込んだのです。…この散財も非難を浴びましたが現在の最新の研究・分析では、公共事業として大きく、当時の社会の発展、経済活動に寄与したという評価なのです。

しかし、徳松を亡くしてから20年余り、綱吉の世継ぎは生まれませんでした。

宝永元(1704)年、59歳になった綱吉は、苦渋の決断を下します…自らの子供を諦め養子を迎え入れたのです。…これまで幾度となく幸運に恵まれてきた桂昌院、しかし綱吉の血筋を残すというシンデレラの最後の願いは、かないませんでした。

宝永2(1705)年、その翌年 桂昌院 死去(享年79)
その4年後、綱吉も母・桂昌院の後を追うように亡くなりました(享年64)

桂昌院が
今に伝えるもの
300年後、東京…桂昌院はお寺だけでなく、庶民の暮らしに直接役立つものも建設していました…隅田川に架かる新大橋、絵師・歌川広重が描いたこの橋は、桂昌院が川の往来に困っていた民衆のために架けた橋です。

近くに庵を構えていた俳人、松尾芭蕉は、橋の完成後、感謝の一句を詠んでいます…「有がたや いただいて踏 はしの霜」

江戸時代、桂昌院が復興した多くのお寺、私たちが訪ねるとある共通のものを見つける事が出来ます…奈良の法隆寺の灯篭には、桂昌院がシンデレラの第一歩を踏み出した養女先、本庄家の家紋、「九目結紋」(ここのつめゆいもん)が付けられています。

桂昌院が奉公した京都・善峯寺の屋根瓦にも「九目結紋」が…そして日本海の海辺の町の寺・大頂寺(京都 宮津市)にも「九目結紋」が…再建に尽くした桂昌院への感謝のしるしとして各地の寺は、恩人所縁の家紋を掲げているのです。

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本堂

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本堂の屋根には「九目結紋」(ここのつめゆいもん)がありました。

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遊龍の松

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大原野神社

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鯉沢池の睡蓮

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大原野神社(おおはらのじんじゃ)
桓武天皇が長岡京遷都の際、皇后の氏神、奈良の春日明神(春日大社の祭神の総称)をここに分祀したのが起こり。850年(嘉祥3)には社殿が造営され、春日造りの丹塗りの壮麗な本殿、猿沢池を模した鯉沢池も造られた。方除け、良縁の神。

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狛犬ではなく狛鹿がお迎えしてくれます。

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眼がちょっと怖いですね。

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茶筌(ちゃせん)の形のおみくじかけ

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