史跡

2016年9月24日 (土)

西寺と羅城門

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かつて、平安京の羅城門(らじょうもん)を挟んで東寺(とうじ)と対をなした、西寺(さいじ)というお寺が存在しました。

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延暦13年(794年)、桓武天皇により築かれた平安京は都の正門、羅城門(らじょうもん)から北へまっすぐに朱雀大路が伸び、その先に壮麗な大内裏(だいだいり・・今で言う御所、皇居)がありました。その羅城門を挟んで、両翼を広げたように建立されたのが東寺と西寺です。東寺は国の東の王城鎮護、西寺は国の西の王城鎮護を担う官寺でした。
平安遷都より29年目の冬、桓武天皇のあとに即位した嵯峨天皇は、唐で密教を学んで帰国した弘法大師空海に東寺を託します。
平安末期、源氏と平家の合戦が起こり、羅城門は崩れ落ち、東寺、西寺ともに衰退の一途をたどります。やがて時代が鎌倉へと移り、東寺に復興の兆しが見えてきます。文覚上人(もんがくしょうにん)の依頼を受け、運慶が諸像の修復に着手し、天福元年(1233年)には運慶の子、仏師康勝(こうしょう)により弘法大師空海の座像が完成。御影堂で法要が始まりました。さらに後白河法皇の皇女、宣陽門院(せんようもんいん)が財政の基盤をつくり、東寺は息を吹き返していきました。
一方、西寺は、天福元年(1233年)に境内に唯一残っていた五重塔が焼失し、以後西寺が復興することはありませんでした。
※東寺ホームページより

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西寺の跡は1921年(大正10年)に国の史跡「西寺跡」(さいじあと)に指定されました。昭和34年からの発掘調査により、金堂・廻廊・僧坊・食堂院・南大門等の遺構が確認されました。
現在は発掘時出土した金堂礎石の一部が残るのみで、京都市立唐橋小学校の敷地や講堂跡の都市公園唐橋西寺公園になっています。


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さてこちらは、西寺と東寺の中間点にかつて存在した、「羅城門」跡地です。

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羅城門(らじょうもん)は、古代、平城京や平安京といった条坊都市の中央を南北に貫いた朱雀大路の南端に構えられた大門であり、都の正門ともいうべき門でした。

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現在では住宅街の奥の小さな公園に、跡地を示す石碑がひっそり残るのみですが、バス停にはその名が残っています。

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ここは京都市生涯学習総合センター(京都アスニー)にある、「平安京創世館」です。ここには平安建都1200年を記念して平成6年(1994年)に制作された「平安京復元模型(1/1000)」があり、大内裏や社寺,貴族の邸宅などを精巧に復元し,京都の礎となった平安京のまちの姿を一望することができます。

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東寺・・正門に向かい右手(東)に五重の塔が配置されています。

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こちらは西寺です。五重の塔は左手(西)に配置され、朱雀大路、羅城門を挟んで左右対称に造られています。

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中央が朱雀大路

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大内裏(だいだいり)

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平安京

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羅城門

羅城門は,平安京の南面中央にそびえたち,隣接する東寺・西寺とともに律令国家の新たな首都「平安京」の正面を飾っていました。その規模については,幅約35.7m,高さ約21mと推測されています。
平安京造営から時代が下ると、弘仁7年(816年)8月16日夜、大風で倒壊。再建されましたが、天元3年(980年)7月9日暴風雨で再度損傷してからは修理されず、右京の衰えと共にこの門も荒廃していった。国内の疲弊につれて平安京南部の治安は悪化の一途をたどり、洛南の羅城門周辺は夜ともなれば誰も近付かぬ荒れはてた地区となったと伝えられています。

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しかし「羅城門」はその後1000年近い時を経て再建されました。それは1950年公開の映画「羅生門」の中のセットとしてですが・・・・。黒澤明監督は大映京都撮影所内に原寸大の羅城門を建ててしまいました。スケールが大きいですね。
※当時は「羅生門」と「羅城門」という名称が併用されていました。

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この日の鴨川

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スズメの砂浴び

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2016年5月13日 (金)

蛇塚古墳(へびづかこふん)

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蛇塚古墳
京都府下最大、全国的にも有数の規模を誇る横穴式石室をもつ古墳で、古墳時代後期の7世紀頃に築造されたと考えられる前方後円墳。このころの太秦一帯は機織や高度な土木技術をもつ渡来系氏族の秦氏により大いに栄えており、蜂岡寺(広隆寺)の創建や、後の平安京造営に際してその一翼を担うほどの勢力をもっていた。その秦氏一族の族長クラスの墓といわれる。はやくから封土は失われ、残存する石室の周囲には民家が建ち並んでいる状況だが、後円部の石室は全長17.8メートル、玄室長6.8メートル、玄室幅3.9メートル、玄室床面積25.8㎡を測る。蛇塚の名称は、かつて石室内に蛇が多く棲息していたことに由来するといわれている。国指定史跡。
【京都観光Naviより】

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帷子ノ辻、大魔神様がいる「大映通り商店街」のほど近くに「蛇塚古墳}があります。

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この通り、住宅地の真ん中にあるんです。

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現地の案内板
【史跡 蛇塚古墳(右京区太秦面影町)】
この巨石の石組みは、古墳時代後期末の7世紀頃築造された京都府下最大の横穴式石室である。本来は全長約75メートルを測る前方後円墳であった。早くから墳丘封土が失われ、後円部中央の石室だけが露出しているが、周囲の輪郭をたどると現在でも前方後円墳の形をとどめている。
棺を安置する玄室の幅は、奈良県の石舞台古墳よりも大きく、また床面積では、三重県高倉山、岡山県こうもり塚、石舞台古墳につぐ全国第4位の規模を誇っている。
この太秦を含む嵯峨野一帯は、渡来系の秦一族により開発されたものと考えられており、京都盆地でも有数の古墳分布地区である。蛇塚古墳は、その規模や墳丘の形態などからみて首長クラスの墓と考えられる。
なお、蛇塚という名称は、石室内に蛇が棲息していたことからつけられた呼び名である。

【石室の規模】
石室全長 17.8m
玄室長  6.8m
玄室幅  3.9m
玄室床面積 25.8㎡ 

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【京都観光Navi】さんに掲示してあった写真をお借りしました。
中はこんなに広いんですね。

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